2008年03月08日

いやん坂と大泉

今夜は、東谷城から骨川・一万に抜ける道の話を少しばあちゃんに聞く。

弘仁十二年、弘法大師は岩部の御殿場場から山坂を登り東谷に入った。
この時、さすがの大師も

「いやな坂だな」

と言われた。

以来『いやの坂』『いやん坂』と名がついたと言われている。

この坂を登り、喉が渇いたので水を求めていると、ふと岩肌に水があるのに気がついた大師が、錫杖をもって二、三度突けば清水が湧き出したとか。

また、江戸時代、高松藩の検見役が年貢の取立ての為、稲の出来具合を見に来た時、庄屋の岩部藤左衛門の家に泊まり、夜に大泉の水を持って来いと下人に命令した。
が、下人の者は「水にかわりがあろうか」と近くの井戸水を汲み出し差し出したとか。
ところがこの水を一口飲んだ検見役は、すぐに吐き出してしまった。

「この水は大泉の水でなし」

と言い、さんざん叱られたそうな。

これが、今の大泉である。

この大泉、年中水量が変わらないらしい。
この泉の水源は剣山であるとか伝えられ、水質も良いことで知られている。

安原三か村立三年生に通った者は、毎日一度は口にしたことがあるということだ。

・・・今現在はどうなのだろうか?

「いやの坂 登りつめれば 骨と皮 命つなぎの大泉」

と歌が残っているほど、そこを通る人の生活に密着していたようだ。



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