2008年02月28日

吉廣城

高松市と香川県のソフバのメンバー登録の名簿を製作する。
100余名在籍しているので、管理も一苦労。

そして、今夜は高齢者支え合いの合同部会。
部員もだんだん増えてきた。
ブロック長さんや民生委員さんに消防団の人・・・。

協力員が多ければ多いほど機動力がアップされるので、うれしいものだ。

既に登録から後に亡くなられた方もいた。
現に東谷でも施設やに入院された方もいる。

常に新しい情報を更新しないと、刻々と登録内容が変化しているのだ。

それを調べるには、自治会や民生委員や数が必要になる。
特に東谷は要支援者の数が多い。
それを他地域と同じ部員ではカバーできない。

よって自治会長さんに手助けをお願いしなければならない。

そこで、愛郷会が役に立つのだ。
東谷の情報発信の会やもんね。

がんばらないとね。

さて、今日は東谷にあったといわれる2つのお城のうち、ちまちゃんちの玉響があるあたりのお城の話を少し。

東谷公民館から村瀬納豆の方へ200メーターほど向かうと、久保田免場となる『吉廣田台(通称:吉廣の田んぼ)』がある。
この田んぼから、平尾八幡入り口の橋までの山裾に『吉廣城』があったと言われている。

『吉廣城』は1140年頃源氏に仕えていた人物で、忠臣とも知られている吉廣兵庫頭の居城である。
その子である兵部は屋島合戦の折には戦功ありと記されている。

また、平尾神社は近衛天皇の天養元年に吉廣兵庫頭の歓請により建てられたと伝えられている。
ちなみに、香川郡史によれば、社家の佐藤氏は吉廣兵庫頭の子孫であると記されている。

山際には城の名残か石垣が残っている。

与州の北山には高さ70センチの宝塔があり『兵庫のお墓さん』と呼ばれている。
その横にある横50センチ程の石祠は、『兵庫の神さん』と呼ばれ御神体は丸石である。
吉廣神とも言われ、少し前までは脇の前下の家がお守りしていたそうだ。

もともとは与州の屋敷内にあった石祠だが、三十数年前に陰の深田さんがお参りしたところ、

『向かいに行く、向かいに行く』

とお墓が言ったとか。
それで、当時の与州の当主が自分の土地である向かいの北山に移してあげたとか。

吉廣田台の所有者の山井谷上の家には、吉廣城の古文書が今も残されているとか。


最初についた仕事が埋文センターの仕事やったので、こんなロマン薫る話が好きだ。
昨日の野望達成のために、日々努力あるのみ。

蟻の一歩も、最終的には地球を一周してるかもね。



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この記事へのコメント
秀一郎さんが管理されているんですか!?
お世話になりますm(__)m
市も県も、両方登録させてもらっています。
なかなか出場できてないんですけど(>_<)
Posted by あっこっこあっこっこ at 2008年02月29日 20:47
旦那が役員で、秀一郎は補佐ですね。

でもPC関係は秀一郎担当です。

大会には旦那が必ず行ってますね。

リーグ戦とかは登録してますか?
リーグ戦もランクがあるので楽しいですよ!
Posted by 秀一郎 at 2008年02月29日 22:50
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    コメント(2)